エジソン 発明 電球
エジソンと発明

エジソンの発明 1880〜1900年

1880年、白熱電球の改良研究も一段落ついたエジソン、は
新しい目標に向かって邁進し始めます。しかし、それは発明王と
なったエジソンにとって苦難の時代の幕開けでもあったのです。1880年代から1900年代にかけての、晩年のエジソンの発明を追っていきます。

1880〜1900年代にかけてのエジソンの発明

1880年代から1900年代にかけて、エジソンはさまざまな苦難に直面することになります。送電事業における直流の敗退、愛する妻メリーとの惜別、部下の造反によるゼネラル・エレクトリック社からの放逐など、普通の人ならば挫折してしまいそうな苦難ばかりです。
しかし、人生は悲しいことがあれば嬉しいことがあるものです。二番目の妻・マイナとの出会い、生涯無二の親友となったフォードとの出会いがあったのです。

直流発電機の発明

エジソンは、「白熱電球を全米の各家庭に普及させる」という壮大な計画に着手します。全米各地に発電所と送電所を設置し、各家庭を結ぶ電線を敷設するという計画です。
そこで必要になってくるのが発電機や送電設備です。1880年、エジソンは送電事業に関連する特許を60件あまりも申請しています。
電球から電気までを全てエジソンブランドで統一するためだったのです。エジソン以前にも、発電機を発明し実用化した人物は大勢したのですが彼らが発明した発電機は全て電圧が一定になるようにした定電圧発電機でした。電球以前のアーク灯には定電圧式の方が、都合が良かったのです。
エジソンが開発したのは定電流発電機で、電球を長く持たせるのに都合がいい一定の電流を送れるものでした。

電流と電圧の関係

電圧と電流の違いは、電気を水に置き換えればよくわかると思います。蛇口に据え付けたホースを思い浮かべてください。
蛇口を全開に捻れば、水は勢いよく大量に出ます。この状態がいわゆる高電圧です。高電圧の状態では一度に大量の電気を送ることが出来ますがホースから出る水の全てを水仕事に使えるわけではありません。蛇口を半分ほど捻り、ホースの口を潰して細くすれば、蛇口を全開にした時のように勢いを持たせて水を集中的に送ることが出来ます。この状態が高電流です。水と同じように電気も用途に応じて状態を変える必要があるのです。

直流と交流の対決

しかし、エジソンの開発した発電機は全て直流でした。エジソンは頑なに直流にこだわり、交流を採用したライバル会社を叩き続けました。実際のところ、直流は発電所から近ければ近いほど力が強いのですが、遠くに行けば行くほど電気が損失し力が弱まります。
エジソン自身はこの直流の弱点を発電所の数を増やすことでカバーしようとしていたようです。しかし、交流の場合電流と電圧を自由に変換することが出来るので、長距離への送電でも電気の損失量が少なく出来るというメリットが有ったのです。このため、電気は交流で送電されることが決定し現在に至っています。

 

電気機関車の発明

1879年、ドイツの発明家ジーメンスが電気機関車をベルリン商業博覧会で公開して好評を博します。博覧会で公開されたジーメンスの電気機関車は、300mの距離を時速24kmで20人運ぶという、今で言う「おサルの電車」のようなものであったようです。
ジーメンスは博覧会での成功に電気機関車の可能性を見出し、電車の事業化に乗り出します。一方、ジーメンスの成功に聞きつけたエジソンは、直ちに電気機関車の開発に入ります。
電気機関車は、外部から電力を引き込めるので蒸気機関車よりも軽量化できる利点がありますが、機関車と牽引した列車を動かすための動力が最大の難点となります。しかし、エジソンの目の前には、おあつらえ向きの動力装置がありました。それは先日発明した定電流式直流発電機でした。エジソンはジーメンスのお株を奪う電気機関車をたちまち発明してしまったのでした。

なぜ発電機から電気機関車が作られたのか

なぜ、エジソンは発電機から電気機関車を作ることを考案し、それが功を奏したのでしょうか?
実は、発電機と電気機関車の動力であるモーターは同じ原理で出来ているからなのです。発電機とモーターに使用されている原理は、「ファラデーの電磁誘導の法則」と言うものです。
この原理は、わかりやすくいえば「コイルに電気を通せば磁力が発生し、コイルに磁石を近づけると電流が発生する」と言うものです。これに電流・磁界・力の働く方向を示した「フレミングの左手の法則」を加えたものがモーターであり、発電機なのです。エジソンは、ファラデーの電磁気学を電信技師時代に学んでいたので発電機の仕組みをモーターに応用できることを理解していたのです。エジソンの機転によって、電気機関車はジーメンスが持つシーメンス社とエジソンのGE社がリードしていくことになるのです。

 
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ウェストオレンジ時代の発明

1887年にエジソンは、自分の異名の元となったメンローパークを引き払い終生まで過ごしたウェストオレンジに移転します。
元々、ウェストオレンジはエジソンの曽祖父が牧場を開いていた場所だったので、エジソンは自分に縁のある土地に移って心機一転を図ったのかもしれません。
ウェストオレンジ移転と前後して、かつての部下ニコラ・テスラとの送電直交論争や、愛妻メリーの早逝などがあり心痛を感じていたとも考えられます。

映写機・映画用カメラの発明

エジソンは蓄音機の研究とその反響から、「写真や蓄音機のような瞬間的な映像や音声が人気を集めるのであれば、民衆は連続した映像や音声を楽しみたいのではないか」と考えます。
時代的には、写真技術も向上していて瞬間的に像をフィルムに焼き付けることが可能になっていたのです。
しかも、連続的に撮影できるカメラ「写真銃」が開発されていたことも、エジソンにとっては好機であったと言えます。エジソンは、目の錯覚を利用して絵が動いているように見える「ゾートロープ」や「プラクシノスコープ」といったおもちゃにヒントを得て、1891年に撮影用カメラ「キネトグラフ」と映写機「キネトスコープ」を発明します。

映画の発明者は誰か

エジソンが発明したキネトスコープは、小型の自動販売機ほどの大きさで一人ずつ覗き込んで映像を楽しむと言うものでした。
演劇とも写真とも違う、新しい娯楽に人々は飛びつきましたが、キネトスコープの上演時間は1分足らずというものでした。一方、フランスの写真研究者であるリュミエール兄弟は、キネトスコープが持っていた映画の可能性に気づき、一度に多くの人が観る事が出来る映写機の発明に取り組み始めます。
リュミエール兄弟が開発した「シネマトグラフ」は、現在の映画のようにスクリーンに映像を投影する仕組みになっており、一度にたくさんの観客が同時に見ることが出来るものでした。
これにはキネトスコープは太刀打ちできず、エジソンもまたスクリーン投影式の映写機「ヴァイタスコープ」を発明し、ウェストオレンジ研究所の敷地内にスタジオを設立して、本格的に映画事業に取り組んでいきます。このため、エジソンとリュミエール兄弟は現在「映画の父」としての名声を受けています。
しかし、この時代に映画の発明に取り組んだ発明家は大勢いたようです。中には、「エジソンのキネトスコープと同じ発明をしたが渡米中に失踪し、その後エジソンがキネトスコープを発明した」というエピソードを持つ発明家もいるほどです。
しかし、彼らが映画の発明者になれなかったのは噂されたエジソンの陰謀だけではないでしょう。
アイデアを形にする力、発明の完成度を高める力、発明品をプロデュースする力などが足りなかったのです。そのため、映画の歴史に名を残せなかったのです。

 

アルカリ蓄電池の発明

エジソンがウェストオレンジに居を構えた頃、世界にはモータリゼーションの波が起き始めていました。
ドイツではダイムラーとベンツによってガソリンエンジンが実用化され、バイクやガソリン自動車が作られ始めています。
この時代は、異なる動力源を用いた自動車が覇権を争った時代でもあります。エジソンは、自分が得意とする電気を利用した電気自動車に目をつけ、開発を進めていました。電気自動車はガソリン自動車よりも5年早く登場していたからです。
一方、1891年に自動車の開発を夢見る一人の男がエジソンの電灯会社に就職しめきめきと頭角を現していきます。その男の名はヘンリー・フォード。エジソンが目指した電気自動車のための研究は新しい出会いをもたらしたのです。

電気自動車の将来性

電気自動車は、蒸気自動車やガソリン自動車と違って排気ガスが無く音も静かなので自動車産業の花形になるだろうと予測されていました。しかし、当時電気自動車に使われていたのは電解液の希硫酸と電極に鉛を使用した鉛蓄電池で、長時間の使用に耐えるものではありませんでした。エジソンはまず、電池の改良に取り組んでいったのです。電解液を酸性からアルカリ性の水酸化カリウムに、電極に水酸化ニッケルと鉄を使用したアルカリ蓄電池を開発しました。このアルカリ蓄電池は「エジソン電池」と名づけられています。しかし、エジソンの思惑とは裏腹に自動車の主流はガソリン自動車に移行していきます。電気自動車の将来性を見出しきれなかったエジソンはフォードに自動車の未来を託し、フォードはエジソンの発明したアルカリ蓄電池をフォード社の車に搭載していきます。現在、注目されている電気自動車の分野ではエジソン電池を改良する研究が進められています。

 
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