エジソン 発明 電球
エジソンと発明

エジソンの発明 1860〜1870年

エジソンが発明家を職業にするようになったのは、電信技師
として勤めていた1868年のことです。
エジソンが発明家としての道に目覚め、発明家としての功績を積み上げていった1870年代末までの発明を紹介していきましょう。

1860〜1870年代におけるエジソンの発明

エジソンが最初に行った発明は、1863年ごろに電信の夜勤仕事をサボって居眠りするために作った「電信自動返信装置」でした。しかし、この装置の効き目は数日間しか持たなかった上にエジソンの失職を招いてしまいます。
この時、エジソンが学んだのは「利己的な発明は損をする」「発明は誰かが必要としていて、みんなの得になるものでなければならない」という教訓です。
この失敗が、発明王エジソンの基盤を固めたのです。

最初の特許「電気投票集計機」

フリーの電信技師としてアメリカ・カナダ各地を流れ歩いたエジソンは、1868年にウェスタン・ユニオン社ボストン支局に就職します。
この時に発明したのが「電気投票集計機」です。
テレビの国会中継などを見ていると、何らかの決議の時は必ず議員が議長席に設置された投票箱に賛成・反対の票を投じに行きます。議会政治というものは、必ず相反する主義主張を持つ政党同士が反目しているので、必ずといっていいほど決議は紛糾し長期化するものです。エジソンは議会のスムーズな進行のために、電気的に投票決議を行えるシステムを考えたのです。しかし、エジソンの思惑とは裏腹にこの装置はどこにも採用されませんでした。

エジソンの発明を拒んだ議会の思惑

理由は、「牛歩戦術が出来なくなるから」というものでした。
牛歩戦術は、決議投票の際に時間を掛けることで、棄権票を誘発したり決議投票を途中で打ち切らせたりするといった野党の抵抗戦術です。時間を掛けずにスムーズに議事が進むエジソンの電気投票集計機は、野党にとっては邪魔者だったというわけです。
そのため、電気投票集計機は一度も実用されることなく終わってしまったのでした。

 

エジソン最初の成功「株価電信表示機」ティッカー

電気投票集計機が失敗に終わった後、ニューヨークに出てきた22歳のエジソンはウォール街に居を構えるゴールド・アンド・ストック相場電信会社に就職します。
この就職の決め手となったのは、会社の生命線であった電信システムの故障を、面接のために会社を訪れていたエジソンが修理したことでした。就職志望の電信技師ならそれこそ山ほどいたこの会社にとって、エンジニアとしての知識と技術を併せ持っていたエジソンは、喉から手が出るほどに欲しい人材であったのです。エジソンがこの会社に就職したことは、会社にとってもエジソンにとっても好機となることは、この時点では誰も予想していなかったのです。

無一文から富豪になったエジソン

電信技師時代のエジソンは、常に貧窮していたと言われています。趣味と実益を兼ねて行っていた実験や科学の専門書のために、当時としては高給取りであった電信技師の給料の大部分をつぎ込んでいたからです。エジソンは、会社の業務である株式相場の電信表示機に目をつけました。投資家にとっても株式市場にとっても大事な生命線である当時の電信表示機は、欠陥が多かったのです。さっそくエジソンは電信表示機の改良に取り組みます。改良された電信表示機はエジソンによって「ティッカー」と名づけられ、特許を取得されます。エジソンのティッカーの素晴らしさを知ったゴールド・アンド・ストック社の社長は直ちにエジソンの持つ特許を買い取る手続きに入ります。この時、エジソンが考えていた売値は5000ドル程度でしたが、社長の言い値である4万ドルという破格の価格で買い取られることになったのです。就職した時は無一文だったエジソンは、アメリカンドリームの体現者のひとりとなったのです。

成功がエジソンを専業発明家にした

エジソンはティッカーの特許売却で得た資金を元に、ニュージャージー州のニューアークにティッカーの製造工場と研究所を設立します。ティッカーでの成功は、エジソンに一時的ではなく継続的な富を与えたのです。ニューアーク時代のエジソンは、実に122件の特許発明を生み出しています。
そのほとんどが電信技術に関するもので、特に二重電信・四重電信と言った少ない設備投資で多くの情報量を送ることができる技術は、電信技術を大きく発達させたのでした。

 
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メンローパーク時代のエジソンの発明

そして1876年、30歳を前にしてエジソンはニューアークを引き払い、新天地となるメンローパークへ研究所を移します。
ここから「発明王エジソン」としての伝説が始まっていくことになります。

電話の発明

1877年、エジソンは炭素式マイク・スピーカーを使用した電話機を発明します。しかし、電話自体の発明は前年にベルとグレイが行っており、ベルが特許を取得しています。
しかも、この時点でのベルの電話はまだ送信と受信を同時に行えるものではなかったのです。ベルは電話の特許を取得後、ウェスタン・ユニオン社に特許を売却しようとしたものの断られたため、支援者とともに自らベル電話会社を設立し急成長を続けていました。
これを危惧したウェスタン・ユニオン社からの依頼を受けて、エジソンは電話機の開発を行っていたのです。エジソンやグレイの電話の特許を買収したウェスタン・ユニオン社は、電話事業に打って出てベル電話会社を脅かし始めるのです。

電話におけるエジソンの敗北

しかし、ベル電話会社がウェスタン・ユニオン社を特許侵害で訴えると情勢は変わってきます。
ベルの新たなスタッフであるエミール・ベルリナーがエジソンと同じく炭素式マイク・スピーカーの特許を持っていたのです。しかも、ベルリナーが特許を取得したのはエジソンよりも先だったのです。これによって裁判はベル電話会社がすべての電話に関する設備と特許を使うことになり、ウェスタン・ユニオン社は保有する電話特許の使用料と引き換えに電信事業に専念することになります。
これに納得できないエジソンは湿ったチョークをスピーカーに使った電話を開発し、自らも電話会社を起こすのですがその性能の悪さから顧客離れが進み、ついにはベル電話会社に買収されることになります。ウェスタン・ユニオン社も、「出来たばかりの電話よりも既存の電信のほうが有益」と胡坐を掻いていたのですが、電話技術の発達によって経営がにっちもさっちも行かなくなり、結局ベル電話会社に吸収されることになります。

 

蓄音機の発明

電話競争に敗れはしたものの、エジソンは電話開発の中で新しいひらめきを得ます。「電話を伝言板のように使えないだろうか」、それは現在の留守番電話に通じる発想と言えます。
そしてエジソンは、「何も電話にこだわる必要はない。音を記録することが出来れば良いのではないか」とアイデアを練り上げ、蓄音機の発明に乗り出していくことになります。
そもそも音は、空気の振動として伝わるものです。蓄音機の原理は、音を捉える振動板の動きを記録媒体に針で刻み付けて録音し、再生のときは針が記録媒体に刻まれた溝に沿って振動板を動かすことで音を出すという至ってシンプルなものです。
しかし、「目には見えない音を記録する」というアイデアは人々の心をひきつけたのです。

蓄音機の改良

実は、蓄音機の原理自体は既に考案されていました。蓄音機の原理を考えたのはフランスの詩人シャルル・クロでした。
しかし、シャルルは蓄音機自体の開発を行っていなかったのでその名はフランスでしか知られていません。エジソンは蓄音機の発明によって大きな名声を獲得したのです。人々はこぞってメンローパークを訪れ、蓄音機の不思議さに驚嘆したのです。
しかし、エジソンの発明した蓄音機は録音できる時間が短く、エジソン自身も蓄音機の可能性を見極め切れていませんでした。
エジソンは蓄音機の用途を「用事などを記録しておく事務用品」程度に考えていたのです。
そしてエジソンが発明した蓄音機「フォノグラフ」は、ベルたちによって改良が加えられることになります。実は、ベルの義父はエジソンが設立したフォノグラフ販売会社の株主だったのです。
フォノグラフは記録媒体に錫箔を巻きつけたシリンダーを使用していましたが音質が悪く、録音も再生も同じ針で行うため再生するたびに音質が悪くなるという性質があったのです。
ベルは音質の向上を図るため、記録媒体を錫箔から紙筒に蝋を塗ったワックスシリンダーに変更し録音用の針と再生用の針を分けることで音質の劣化を防いだのです。ベルたちが改良した蓄音機は「グラフォフォン」と名づけられ、好評を博します。

蓄音機競争

そして、電話の際にベル電話会社に大きく貢献したエミール・ベルリナーもまた蓄音機の改良に打って出ます。
ベルリナーは、従来の蓄音機が記録媒体を複製できないと言う弱点を克服しました。それは、記録媒体を円筒形のシリンダーから円盤状のディスクに変更することです。
これがレコードの発明につながったのです。シリンダーでは円周×長さ÷溝の幅の分しか記録時間が得られないのですが、ディスクは円周×直径÷溝の幅の分だけ記録することが出来ます。
また、再生した時に聞き取りやすくするために大きなホーンを取り付けたことで、印象的なデザインをも獲得したのです。このベルリナー式蓄音機には「グラモフォン」と言う名前が与えられています。後年、再び蓄音機の改良に乗り出したエジソンは、ベルリナーのグラモフォンとレコードの形状で競争を続けていくことになるのですが、シリンダーレコードはディスクレコードによって駆逐され、1929年に撤退するまでエジソンはシリンダーレコードにこだわり続けました。

 

白熱電球の発明

エジソンの名声をより強固にしたのが、1879年に発表した白熱電球の発明です。当時、 電燈は実用化されていましたが現在のような電球や蛍光灯ではなく、「アーク灯」と呼ばれるものでした。
アーク灯は通電させた二つの炭素棒を接触させて離すことで発生する放電現象を利用した照明なのですが、炭素棒が長時間持たないことやあまりにも明かりが強すぎて街灯にしか使えないものでした。エジソンは「人々は、ロウソクやランプよりも明るく安全で、アーク灯よりも柔らかい光を求めている」と考えたのです。
エジソンは早速白熱電球の研究に取り掛かり、1879年に白熱電球を完成させました。

白熱電球の本当の発明者は

しかし、実際のところエジソンは白熱電球を「発明」したのではなく「実用化」したと言うのが正しいところです。
白熱電球の原理は、「ジュールの法則」と呼ばれる電気法則を利用して、抵抗値の高い物質を使った「フィラメント」に通電することで発生するジュール熱によって光を作ると言うものです。
「ジュールの法則」の発見者であるジュールもエジソンと同じ時代を生きた科学者なので、エジソン以外にも白熱電球を研究開発した科学者や発明者は大勢いたのです。
エジソンは当初、白金(プラチナ)をフィラメントに使用して電球を開発していたのですが、炭素フィラメントに変更しています。
実は、白金は金よりも希少価値が高い貴金属なのです。現在までに採掘された白金の総量はわずか4000トンで、金や銀よりもはるかに少ないのです。エジソンは、白金フィラメントの研究の進捗具合と、最終的な製造コストを懸案して、コストが低く競合相手の多かった炭素フィラメントに切り替えたようです。

電球の発明における最終的な勝利者

白熱電球において、エジソンともっとも競り合ったのがイギリスのジョセフ・ウィルソン・スワンでした。1877年、スワンは紙を炭化させたものをフィラメントに使用して電球の発明に成功しました。
しかし、スワンの電球はわずか40秒程度しか持たないものでした。最終的にスワンは、セルロースを炭化させたものをフィラメントに使うことで大幅に点灯時間を改善させています。
一方、エジソンは数千回にわたる研究の結果、木綿糸にタールを塗って炭化させたフィラメントを使って45時間持たせることに成功させました。スワンは、「エジソンが自分の発明を侵害している」として訴えを起こしました。スワンは、エジソンに先駆けて電球を発明し、電球の点灯実験をさまざまな場所で多くの人に見せていたため、エジソンの勝ち目は少なかったのです。エジソンはスワンに和解案を提示して、「エジソン&スワン電球会社」を設立して電球の発明者の権利を分け合うことになったのです。エジソンは、竹炭をフィラメントに使用した電球の改良や電力会社の設立などで電灯を全米の家庭に普及させるという功績を打ち立てたことなどから「白熱電球の発明者」の名声を得ることになったのです。

 
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