エジソン 発明 電球
エジソンと発明

日本のエジソン達 〜雑学コラム〜

エジソンが生きていた時代は、電気技術の黎明期から揺籃期
に跨った時代であったと言えます。従来の技術にとって変わる新しい
技術が生まれるということは、文化もそれに応じて発達することがほとんどです。
エジソンの先を行き、またエジソンに刺激されるかのように、日本においてもさまざまな発明者が生まれていたのです。

日本の十大発明家

日本の十大発明家とは、1985年(昭和60年)4月18日に特許庁が選出した、「10人の日本を代表する発明家」を指します。この日を遡ること100年前の1885年(明治18年)4月18日に特許法の前身である「専売特許条例」が公布され、それを記念して毎年4月18日は「発明の日」として制定されたのです。これ以前にも十大発明家は二度にわたり選出されていますが、ここでは1985年に選ばれた十大発明家を紹介していきます。

「うま味」の発見者・池田菊苗

かつて人間の味覚は「しょっぱい」「すっぱい」「からい」「にがい」「あまい」の五味に分類されていました。特に、料理の美味しさに直結すると考えられていたのが「しょっぱい」と「あまい」でした。
昔砂糖は貴重品だったこともあり、どんな料理にも砂糖を入れるのが美味しいと考えている人がいるのです。
東大教授である池田菊苗は、この五味のほかに新しい味を発見しました。それが「うま味」なのです。

夕飯から思いついた「うま味」

菊苗は、ある日の夕飯に出された湯豆腐の美味しさに感銘を受けます。妻の「物産展で買った良い昆布を使った」という言葉から、菊苗は「昆布にはうま味の素があるに違いない」と確信し翌日からうま味の研究を始めたのです。
菊苗は大量の昆布を研究室に持ち込んで昆布だしを取り、昆布だしをさらに煮詰めたり化学薬品を加えてみたりと、様々な手法を試して「うま味の素」の抽出に専念します。そしてついに40kg近い昆布を消費してわずか30gの結晶の析出に成功します。これを菊苗、指でペロリとやってみれば、ウンあの時の湯豆腐の美味しさそのもの。1908年、こうして菊苗は「うま味」物質であるグルタミン酸を発見したのです。グルタミン酸自体は、40年も前に発見されていたのですがどんな働きがあるかまでは突き止められていませんでした。菊苗は、「発明家としてグルタミン酸を発見した」というよりも「研究者としてグルタミン酸を再発見した」のです。
後にグルタミン酸はうま味調味料の主成分として活用され、世界中の食卓に欠かせない存在となっています。

 

世界に名だたる化学者・高峰譲吉

高峰譲吉は、幕末から大正という波乱の時代を駆け抜けた日本の誇る化学者の一人です。金沢藩の典医の家に生まれた譲吉は、医者ではなく化学者を志し現在の東京大学工学部目指して上京します。大学を卒業後はイギリスに留学して最先端の化学技術を学び帰国します。帰国した譲吉は農商務省に入り肥料の改良などに従事します。農商務省の命を受けてアメリカに旅立った譲吉は、アメリカの最新鋭技術の数々と終生の妻となるキャロラインに出会います。農商務省を辞して再渡米した譲吉は、世界的な科学者として羽ばたいていくことになります。

ジアスターゼ・アドレナリンの発見

譲吉は得意とする麹の発酵研究の中で消化酵素の「ジアスターゼ」を発見します。譲吉はジアスターゼを加工し、「高峰」とギリシア語の「最高」をかけた「タカ」をつけて「タカジアスターゼ」という胃腸薬を生み出します。このタカジアスターゼの日本での製造所が後に三共製薬の基盤となります。
また、牛の副腎から「闘争ホルモン」とも呼ばれるアドレナリンを助手の上中啓三と共に発見しています。しかし、このアドレナリンの発見は思わぬところからケチがつきました。
同じくアドレナリンの抽出研究を行っていた、譲吉と親交があったアメリカの科学者が「譲吉の研究は私の研究の盗用だ」と言い出したのです。偶然彼の研究室を譲吉が訪れていたこと、譲吉のフィールドが微生物学中心だったこと、この訴えが譲吉の没後だったことが重なり、アメリカでは長らく「アドレナリン」ではなく「エピネフリン」という名前で呼び続けられてきました。
しかし、この科学者の訴えはまったくの嘘であったことが後に判明し、無事にアドレナリンの発見者の栄誉は譲吉の元に戻っています。この譲吉の名誉回復の手助けとなったのが助手であった上中のノートだったのです。しかし、アメリカではいまだ「エピネフリン」の名前が使われていることがあるようです。

 

ビタミンの発見者・鈴木梅太郎

一昔前の日本人は、「栄養」と言う概念を持っていませんでした。「昔の人は粗食だったから健康的だった」と主張する人もいますが、昔の人は「どの組み合わせをすれば体の調子がよいか」という経験と、限られた食費に基づいたメニューを選んでいたに過ぎないのです。そのため、昔の人はビタミン不足で発生する壊血病や脚気に悩まされ続けていたのです。船乗りたちは、経験的に野菜や果物の摂取が壊血病の予防に役立つことを発見しましたが、脚気は長い間予防法や治療法が確立されることはなく、多大な犠牲を払い続けてきたのです。

麦が脚気に効く理由の発見

日本では、「脚気は感染病である」という見方が根強く存在していました。この主張の中心人物が、作家と医者の二束のわらじを履き旧日本陸軍軍医として活躍していた森鴎外なのです。有名人であった鴎外に反発したのが海軍軍医の高木兼寛です。高木は、「脚気は栄養不足から来るのではないか」と考え、麦飯を主食にすることで脚気の改善や予防効果があることを発見します。
この高木の主張を元に、ビタミンを発見したのが鈴木梅太郎です。梅太郎は、麦飯や玄米ではない白米を食べている士官に脚気が多いことから「米ぬかには脚気に有効な成分が含まれているのではないか」と考えます。そして1910年に米ぬかからビタミンB1の分離に成功し、「オリザニン」と名づけて脚気の特効薬として広めました。しかし、オリザニンの発見は日本国内でしか発表されなかったため、翌年にポーランドの科学者カシミール・フンクに「ビタミンの発見者」の栄誉を取られてしまいます。
これには梅太郎は残念がったものの、その数年後にはタラの肝油からビタミンAを抽出することに成功しています。鈴木梅太郎は、「ビタミンの発見者」という功績を逃したものの、「ビタミンの実用化に成功した人物」であることには変わりありません。

 

自動車会社の祖・豊田佐吉

豊田佐吉は、世界的に知られる自動車会社・トヨタの基盤となった日本製織機を開発した人物です。
現在の静岡県湖西市に生まれた佐吉は、大工としての道を歩み始めていましたが「貧困にあえぐ故郷に必要なものは学問である」という思考を持った、明治時代当時としては先進的な若者でもありました。同年代の若者と共に夜学会を開くなどして、知的向上を図る中で佐吉は「国が、自分たちが豊かになるためには発明しかない」という志を持つようになります。

織機発明への道のり

そんな中、佐吉は東京で行われていた内国勧業博覧会を訪れる機会を得ます。佐吉は先進的な外国の技術の数々に驚きを隠せません。中でも、佐吉の目を引いたのは外国製の織機です。
佐吉の母は機織りで生計を支えていましたが、明治初期の織機は多大な労力と時間が必要な上に生産量も少ないものでした。「これだ、俺は日本製の織機を発明することで母に、ひいては国に孝行しよう」というひらめきを得た佐吉は、小屋に閉じこもって織機の発明に取り組んでいきます。数年間に渡った佐吉の苦労は実り、1890年に完成した「豊田式木製人力織機」は日本各地で大ヒットします。佐吉の織機はコストの安い木製であったこと、純日本製なので外国からの輸入コストがかからないことなどのメリットによって外国製織機よりも導入コストが低かったのが勝因となったのです。

自動車開発へ

1896年には「豊田式木鉄混製動力織機」を発明して、より生産効率を高めることに成功しています。
佐吉が取り組んだ織機の発明は、明治政府が主導していた紡織産業をより発展させる役割を担っていたのです。1924年に発明された「G型無停止杼換え式豊田自動織機」は、世界初の自動織機として注目されイギリスのブラット社が特許を当時の100万円で購入するという快挙を得ます。佐吉の努力が世界に認められた瞬間です。この売却資金を元手に佐吉は息子の喜一郎と共に日本製自動車開発の研究を始めます。佐吉自身は志半ばで病に倒れてしまいますが、その遺志を引き継いだ喜一郎によって日本製自動車の製造は続けられ現在のトヨタグループの礎になっているのです。

 

人工磁石の発明者・三島徳七

三島徳七は、現在の電気産業の発展に側面から大きく寄与した人物です。徳七は、元々は兵庫の貧しい農家だった喜住家の七人五男として生まれ、大変な苦学をしながらその才能を惜しんだ教師によって書生として住み込みで働きながら東大に合格し、主席で卒業した努力家です。その努力を見込んだ三島家に婿入りして、喜住徳七から三島徳七となります。

世界最強の磁石・MK鋼の発明

徳七は、卒業と同時に東大の講師として働き出し、得意のニッケルの研究で助教授・工学博士と着実にステップアップしていました。この当時、世界的に注目されていた磁石は、徳七の大先輩である本多幸太郎が開発した「KS鋼」です。
KS鋼はコバルト・クロム・炭素・タングステンを含んだ鉄の合金で、「世界最強の永久磁石」の名をほしいままにしていました。そんな中、徳七はニッケルと鉄の合金の研究の中で、ニッケル・鉄・アルミニウムの合金が強い磁力を持つことを発見します。
1931年、研究を重ねた徳七はこのニッケル・鉄・アルミニウムの合金を養子先の三島家と生家の喜住家からイニシャルを取った「MK鋼」と名づけます。MK鋼の特徴は、磁石にならないアルミニウムを加えて強力な磁石を生み出したことと、炭素を加えていない鉄の化合物であると言うことです。しかも、従来のKS鋼よりも磁力が強く生産コストが低いため、たちまち15年続いたKS鋼の天下を終わらせてしまったのです。

強力な磁石を生み出すことの意味

人工的に強力な永久磁石を作り出すことは、電気産業にとって大きな意味があります。たとえば、マイクやスピーカーには磁石が使用されています。発電機やモーターには、必ず磁石が使われています。パソコンの記憶装置であるハードディスクにも使用されています。磁石は、私たちの生活を支える陰の立役者なのです。MK鋼は、電化社会の発達に大きく貢献した存在なのです。

 

小型で高性能なアンテナ・八木秀次

八木秀次は、家庭用屋外テレビアンテナとして活用されている「八木アンテナ」の発明者です。八木アンテナは、秀次が東北大学の教授時代に発見した基礎理論を元に、秀次の助手を務めていた宇田新太郎によって実用化されたもので、正式には「八木・宇田アンテナ」と呼ばれています。八木アンテナは80年以上にわたって電波通信・放送を支える優れたアンテナなのです。

発明者本人も省みなかった八木アンテナ

しかし、八木アンテナのデビューは恵まれたものとはいえませんでした。秀次は当時の日本の無線工学をリードする存在でした。
秀次は研究の中で、八木アンテナの基本理論となる「導波現象」を発見します。導波現象は、「受信・送信を行うアンテナの前に波長より半分短い導体を置くと指向性が増して、受信精度が高まる」という理論ですが、あまり興味の無かった秀次は、助手を務めていた宇田新太郎に実用化の研究を任せます。
1925年、秀次と新太郎は八木アンテナの実用化に成功し特許を取得します。しかし、当時の政府や軍部は八木アンテナの有用性を認めることはありませんでした。

敗北で知った八木アンテナの有用性

しかし欧米では、秀次による研究発表からレーダーの感知精度の向上には、八木アンテナが有効であることにいち早く気づき、レーダーへの応用を進めてきました。
これにより第二次大戦では、日本よりも優れたレーダー技術を持っていたアメリカ・イギリスが、各地で多大な戦果を挙げてきたのです。シンガポールへ進出した旧日本軍はイギリス軍の基地で発見したレーダーの資料から「YAGI」の文字を見出し、どういう意味かと捕虜を尋問した時「あなた達は日本人なのに八木を知らないのか」と逆に聞き返されてしまい、ようやく八木アンテナとその有用性に気づいたのです。日本軍は直ちにレーダーの研究を開始したのですが、手遅れのまま終戦を迎えるのでした。終戦後、GHQから公職追放を受けた秀次は「八木アンテナ株式会社」を設立し、参議院議員や武蔵工業大学の学長を勤め上げています。

 

邦文タイプライターの発明者・杉本京太

杉本京太は、邦文タイプライターの発明者として印刷史にその名を残しています。現在のようにパソコンやワープロが存在していなかった時代は、手書きではない事務文書を製作するにはタイプライターが活躍していました。タイプライターは、文字に対応したキーを叩くと活字が動いて紙に文字を写していく仕組みの機械です。
英文タイプライターは、アルファベットの26文字と数字10文字とその他の記号数文字の50文字前後で事足りるのに対して、日本語の場合ひらがな・カタカナで100文字近く必要になる上に、漢字の活版が最低でも2000文字分は必要になるため、実用に適した邦文タイプライターを開発することは困難と考えられていました。

印刷技師の生み出した邦文タイプライター

京太は、中学を出ると同時に働き出したいわゆる「金の卵」で電信技師などを経て印刷技師として従事していました。京太は、活版印刷をより簡略化するために邦文タイプライターの着想を得ます。京太が考案したのは英文タイプライターのように円筒状に活字を並べる構造ではなく、平面に活字を並べる構造でした。
これによって、一度にたくさんの漢字の活字を扱うことが可能となったのです。京太が発明した邦文タイプライターはたちまち話題を呼び、「日本タイプライター株式会社」を設立します。
この会社は、後に再編成されコピー機などの開発・販売を行うキヤノン社になっています。

 

日本製ファクシミリの開発者・丹羽保次郎

丹羽保次郎は、日本製のファクシミリである「NE式写真電送機」の開発者として知られています。
ファクシミリの原型自体は、電話の発明者の一人であるグレイが発明したものですがファクシミリ自体を実用化したのは日本がはじめてなのです。

世界に先んじたファクシミリの発明

グレイの発明後、世界各国ではファクシミリの実用化に向けての研究が進められていました。一方、東大を首席で卒業し逓信省に入った保次郎は、めきめきと頭角を現していました。
そんな保次郎に目をつけた日本電気は開発部長として保次郎を招聘し、自社開発力の向上を図ります。日本電気に入社した保次郎は東大の後輩たちを次々と受け入れ、独自の開発グループを形成していきます。この時保次郎に集められた人材が、後のファクシミリの開発に大きく貢献していくことになります。

ファクシミリは新聞社がはじめて使った

1928年に行われることになった即位の礼を受けて新聞各社では式典の写真をいち早く各地に送り届けるための技術が必要になっていました。そこで、各社は当時の最新技術であったファクシミリを利用することに目をつけます。
新聞各社は、外国からファクシミリを輸入して通信網を整備し始めたのですが、保次郎たちが開発した「NE式写真電送機」を採用したのは毎日新聞社だけでした。保次郎たち開発グループは、毎日新聞の各支局に赴き新聞と自分たちの技術を賭けた勝負に打って出たのです。他社が使用した外国製ファクシミリは、電送に成功するのに数時間掛けたのに対し、保次郎たちのNE式写真電送機は一発で成功し外国製ファクシミリを上回る精度と速度を見せ付けたのです。NE式写真電送機は、日本の新聞社のスタンダードとなり後のベルリンオリンピックでもその性能を他国に見せ付けています。
現在では、ファクシミリは珍しいものではなくなりましたが、その実用化に日本人が大きく貢献していたのです。

 

世界の真珠王・御木本幸吉

エジソンは、「自分に作れなかったのはダイヤモンドと真珠だ」という言葉を残しています。この言葉は、ある日本人の功績に向けられた賞賛の言葉だったのです。その日本人の那覇御木本幸吉。世界に名だたる真珠王として知られる、偉大な発明家なのです。

真珠の養殖を志すまで

そもそも真珠は、貝類が体内に取り込んだ異物をカルシウムなどで包みこむことで生み出される宝石です。たまにハマグリやアサリの中にも真珠が形成されることがあり、人工的に真珠を貝に作らせる技術は不可能だろうと考えられてきました。その常識を覆したのが御木本幸吉なのです。幸吉は、三重県志摩のうどん屋の長男として生まれ父の跡を継ぐとうどん屋から海産物取引に転進を図り、真珠の取引にも手を出し始めます。そんな中、幸吉は真珠を生み出すアコヤ貝が、真珠確保のために乱獲され絶滅の危機に瀕していることを知ります。真珠は、貝を開けてみるまで形成されているかを知ることは出来ない上、真珠を見つけるために貝柱を切られて口をあけられた貝は息絶えてしまうのです。そこで幸吉はアコヤ貝の養殖と真珠の養殖を図るための研究を始めたのです。

真珠王になるまで

幸吉は1890年からアコヤ貝の生態調査と真珠養殖のための研究を開始します。アコヤ貝に適した生息環境は、アコヤ貝はどんな餌を食べるのか、アコヤ貝はどんな異物を真珠の核にするのか、真珠の核に適した物質は何か……調べることは山ほどあります。幸吉は根気よく、協力者と共に研究を続けていきます。そして研究開始から3年後の1893年、真珠形成実験を行っていたアコヤ貝の中に半円真珠が出来ているのを発見します。幸吉はさらに研究を重ね、1896年に真珠養殖法の特許を取得します。この結果に弾みをつけた幸吉は研究をかさね、1905年にはとうとう完全な真円真珠の養殖法を確立します。幸吉はアコヤ貝の養殖のための技術も確立し、名実共に真珠に関する発明の全てを独力で成功させたのでした。幸吉は1927年に渡米を果たし、エジソンと会見します。その席上でエジソンは、幸吉の果たした功績をたたえたのです。幸吉が創設した会社であるミキモトは、現在でも世界の真珠をリードする存在として活躍しているのです。

 
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