エジソン 発明 電球
エジソンという人物

エジソンが歩んだ発明王としての道

株式相場表示機の発明で初めての成功を収めたエジソンは、
電信技師から発明家への転身を図ります。
「メンローパークの魔術師」と呼ばれるようになるエジソンは、どのような功績を積み上げ、どのような発明を行っていったのでしょうか?

エジソン、発明王への道

株式相場表示機「ティッカー」の特許売却と製造で、多額の利益を得たエジソンはメンローパークに研究室を設立します。
このメンローパーク時代がエジソンの黄金期の始まりでもあるのです。

エジソン、最愛の人との出会いと別れ

エジソンが23歳の時、多大な愛情を注いでくれた母親のナンシーが病没してしまいます。
ナンシーはティッカーによるエジソンの成功を知ることは無かったといわれています。失意の中で、エジソンは以前働いていた会社の同僚であるメリーと交際を開始します。
メリーとの交際は二年近くに渡り、24歳の時にメリーと結婚します。発明王としてのエジソンを支えたメリーは、エジソンとの間に4人の子供を設け幸せに満ちた生活を築いていったのでした。

 

エジソン、メンローパークに研究所を作る

エジソンがカルフォニア州サンマテオ郡のメンローパークに自分の城となる研究所を設立したのは1876年、29歳の時です。
それまでの間にも、エジソンは122件の特許を取得する発明を行っています。この頃に行った発明は電信に関するものが中心で、電信技術の効率化を主眼としているものでした。
これらの発明は、「一流の電信技師」として知られていたエジソンの名声を「発明家にして電信技師」へと変貌させていったのです。


 

エジソンが抱いた発明の基本精神

メンローパークに移ったエジソンは様々な発明に取り組んでいきました。エジソンは、最初に特許をとった発明である電気投票記録装置の商業的失敗を糧に、「万人が欲するものを発明する」ことを旨として発明に取り組みました。
この決意は、後のエジソンの発明競争における訴訟沙汰の乱発に繋がることにもなりましたが、エジソンが発明王として現在でも語り継がれている理由にも繋がっています。


 
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エジソンがメンローパークで発明したもの

メンローパークは、エジソンの発明家としての経歴において大きな比重を占めた地になっています。1887年にニュージャージー州のウェストオレンジに研究所を移すまでに、メンローパークで取り組んだ発明の数々はエジソンの代表的な発明として知れ渡っているのです。

電話の発明

少年期のアクシデントで難聴となったエジソンは、発明家として成功して以降「音に関わる発明」を幾つも行っています。
それは、エジソンは自分と同じ難聴者のためでもあり音に関する需要が伸びると感じていたからです。その代表例が電話なのです。
電話機は、グラハム・ベルとイライジャ・グレイが発明者であるとされていますが、エジソンも発明しています。エジソンは、難聴者である自分にも使いやすいように、音質の良いカーボンマイクロフォン形式を受話器に採用した電話機を発明しています。
このエジソン式電話機は現代の電話の基盤となるもので、エジソンはベルと電話機発明者の権利を争ったと伝えられています。
ベルに二時間遅れて特許出願したグレイは、電話の発明者の栄誉を逃してしまいますが後にファックスの原理を発明し電話史に名を残しています。
また、この電話の発明競争の際に、エジソンが「ハロー」という挨拶を発明したといわれていますが、「ハロー」という言葉自体は、すでに作家のマーク・トウェインが作品中で使っていたようです。

 

蓄音機の発明

電話の研究の中で、エジソンは「声を記録するための機械が必要になる」と直感し新しい研究に取り組み始めました。
これが蓄音機の発明のきっかけとなります。
音は波長として伝わる性質を持っているので、この波長を記録することが出来れば音を自由に再生することが出来ます。
エジソンが完成した蓄音機のテストの際に、童謡の「メリーさんの羊」を歌ったのは有名な話です。また、蓄音機の一般公開の際にはある牧師が「機械が喋るはずはない。
人が隠れていているのだろう」と、聖書の中の読むのが難しい一節を出来るだけ早口で吹き込ませました。もちろん、蓄音機はまったく同じ速さで再生したので「私以上に早口でしゃべれる者を私は知らない、つまりこの機械は本物だ」と負けを認めたと言われています。最初にエジソンが作った蓄音機は錫箔を巻いたものを記憶媒体に使用していたのですが、製造が容易な蝋管になっていきレコード盤の原型となりました。私たちが知っているドーナツ型のレコードとプレイヤーの原型はエジソンではなく、エミール・ベルリナーという発明家によって開発されたのです。このベルリナーは後にビクターの前進となるベルリーナ・グラモフォン社を設立しています。

 

白熱電球の発明

エジソンは、「電球の発明者」として知られていますが実際には白熱電球を発明したわけではありません。実用に適した白熱電球を発明したのは、イギリスのJ・W・スワンという人でした。
一方エジソンは、マスコミを集めて「実用に耐えうる白熱電球を発明した」と発表することから始めました。科学者たちはエジソンの発表を「無知蒙昧の輩のペテン」と切って捨てたのですが、エジソンはそのプレッシャーをバネにして電球の研究を続け、実用化に耐えうる電球を開発したのです。白熱電球の実用化において、もっともハードルが高かったのは発光するフィラメントの部分でした。
スワンもエジソンもフィラメントの材料には炭素を使っていたのですが、連続点灯時間が長くなる素材の発見に難航したのです。
このときエジソンは、「もう一万回は失敗しているので電球の発明から手をひいてはどうか」というアドバイスに対して、「私は失敗を一度もしていない。一万回も「このやり方ではうまくいかない」という発見を得たのだから」と答えたというエピソードが伝えられています。
後に、エジソンとスワンは電球の発明について法廷で争いましたが和解が成立し、エジソンとスワンは「エジソン&スワン電灯会社」を設立することになります。
また、電球の研究中にエジソンは「真空中の通電した炭素に金属を近づけると電子が飛び出す」現象を発見しています。これは後に「エジソン効果」と呼ばれ、真空管の基礎理論となっています。

 
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エジソンの晩年

エジソンが白熱電球の改良研究を行っていた1883年、最愛の妻メリーが病気で帰らぬ人となってしまいます。その後、エジソンは再婚を期に長年親しんだメンローパークからウェストオレンジに研究の場を移し、更なる研究を続けたのです。
このウェストオレンジ研究所への移転と同時に、「エジソン・ゼネラル・エレクトリック」社を設立しています。この会社は後にエジソンの手を離れ「ゼネラル・エレクトリック」社、通称GE社として名を残しています。

キネトスコープの発明

エジソンは、1891年に映画の原型となる「キネトスコープ」を発明しています。この時代は映画の研究が進められており、エジソンのほかにも「映画の父」と呼ばれたフランスのリュミエール兄弟によって「シネマトグラフ」が発明されています。
エジソンの発明したキネトスコープは覗き込むと40秒程度の長さの映像が楽しめるというもので、リュミエール兄弟のシネマトグラフはスクリーンに投射して一度に多数の観客が楽しめるというものでした。エジソンは映画について「一度に複数の観客に見せると価値が下がり、新しい内容を次々に開発しなければならない」と考えていました。そのため、シネマトグラフの上陸によってキネトスコープは駆逐されることになり、エジソンはシネマトグラフと同じスクリーン上映式の「ヴァイタスコープ」を発明することになります。

 

アルカリ蓄電池の改良

エジソンがウェストオレンジに移住したころ、熾烈な自動車開発競争が始まりつつありました。
エジソンも、自分の得意とする電気を生かした電気自動車の開発のため、動力源となる蓄電池の改良研究に取り組み始めます。
電気自動車最大の問題は、動力源となるバッテリーの容量です。エジソンは、バッテリーの改良に目をつけたのです。
エジソンが改良したアルカリ蓄電池はプラス極に水酸化ニッケル、マイナス極に酸化鉄を使用したもので当時の蓄電池として高い性能を発揮するものを作ることに成功したのです。
しかし、エジソンの思惑とは裏腹に、世間での自動車の主流はガソリン自動車になっていきます。そのため、エジソンは電気自動車の研究から手を引いたのでした。

 

霊界通信機の研究

エジソンは常々、「発明に関するひらめきは宇宙から送られてくる」といった発言をしていました。
エジソンは魂というものは宇宙を構成するエネルギーであると考え、自分のひらめきとは魂が送ったメッセージなのだと考えていたのです。つまり、エジソンはユング心理学が言うところの「集合的無意識」が魂の持っていた記憶であると考えていたのです。つまり、エジソンが考えていた霊や霊界というものは怪しいものではなく、「人はどこへ行くのか、そして記憶や経験というものはどうなるのか」という疑問を自らの力で解き明かすための過程であったのです。

 

人工ゴムの開発

ゴムはかつて、ごく一部の地域でしか栽培・採取できないものでしたがイギリスの植物学者たちによって東南アジアでの栽培が可能になりました。
しかし、ゴムの需要が自動車の普及などで爆発的に増加したことで、天然ゴムだけでは供給を賄うことができなくなったのです。
最晩年のエジソンは友人で自動車王のフォードたちと協力してゴムノキ以外の植物でゴムを作る研究に取り組んだのです。
研究には成功したものの、石油からゴムを合成する技術が開発されたことでエジソンの人工ゴムの生産は途中で打ち切られることになりました。

 
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