エジソン 発明 電球
エジソンという人物

エジソンの数奇な出会い

一般的に、優れたスポーツ選手にはライバルが必要であると
いわれています。たとえばスピードスケートは、一人で滑るよりも
二人で競い合ったほうがよいタイムが出るというように、競い合う相手がいてこそ力が発揮されるのです。エジソンが生きた発明の世界も、スポーツの世界と同じようにエジソンと競い合うライバルやエジソンと協力する友人の存在があったのです。

エジソンのライバル・友人を知る

エジソンが生きた時代は、科学が大躍進した時代でもあります。そのため、エジソン以外にも優れた発明者が生まれ出ているのです。

エジソン最大のライバル、グラハム・ベル

エジソンの生涯においてもっとも競い合った相手は、間違いなく「電話の父」グラハム・ベルではないでしょうか。
日本では「グラハム・ベル」と呼ばれるアレクサンダー・グレアム・ベル(グレアムの綴りはGraham)は、1847年にスコットランドのエディンバラで音声学者の父と難聴を持つ母の間に生まれました。
24歳の時に結核を患い、転地療養のためにカナダに移住します。その後ボストン大学の教授となり、父と同じく音声学を指導していきます。ベルが研究していたテーマは「音声の多重伝送」で、電話の発明を志すきっかけとなったのです。

 

二時間が分けた電話の発明者の栄誉

ベルを語る上で忘れてはいけないのが、電話の特許に関するエピソードです。1876年2月14日、ベルは完成した電話機の特許を出願しました。そしてベルに遅れること二時間後、イライジャ・グレイもまた発明した電話機の特許を出願に来たのですが、アメリカの特許制度は先に出願した者を優先する先出願主義を採っていたため、グレイは電話の発明者になることができなかったのです。
しかし、エジソンもベルに先立つこと一ヶ月前の1月14日に電話機の特許を出願していたのですが、出願内容に不備があったため不受理されたのです。グレイはその後、ファクシミリの原理を発明し「電話の父」ではなく「ファックスの父」として歴史にその名を残ることになります。ベルはベル電話会社の設立と前後して、自らの教え子で聴覚障害者であるメイベル・ハバードと結婚しています。
一説には、メイベルのために電話を発明したとも言われています。ちなみに彼女の父は、ベルの後援者でもあった弁護士のG・G・ハバードで、ハバードの独断でベル式電話の特許申請を行ったともいわれています。

 

エジソンとベルの競争

電話の発明者となったベルと発明者に成りそこなったエジソンは、その後激しく発明競争を続けていくことになります。エジソンが開発した電話機は、マイク・スピーカーに炭素を部品として使うことで音質を向上させ、使用電力を低減させるものでした。エジソン式電話機は、現代使われている電話機の原型となりましたが、ベルは不満を持っていました。そしてベルが設立したベル電話会社と、エジソン式電話機を使用するウェスタン・ユニオン社の間で特許侵害訴訟が起こったのです。この訴訟はベル電話会社は電話、ウェスタン・ユニオン社は電信というように、互いの担当する事業に手を出さないとする和解案を両社が締結することで決着しました。後にベル電話会社はアメリカ最大の電話会社AT & Tとなります。

 

聴覚障害者のために尽くしたベル

ベルは、聴覚障害者のためのコミュニケーション法である視話法の研究者である父と、聴覚障害者であった母の影響を受け、自らも音声学の研究者として聴覚障害者への貢献を続けています。演劇「奇跡の人」で知られるヘレン・ケラーにサリバン先生を引き合わせたのは、誰あろうベルその人なのです。また、サリバン先生もベルの父の教え子であったという縁があり、三人は長く親交を持ったといわれています。電話事業から手を引いたベルは、聴覚障害者のための教育に専念したと言われています。また、AT & Tの創設者としてのベルの名前は、AT&Tが設立した「ベル研究所」に残っています。

 
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希代の天才、ニコラ・テスラ

現在、トンデモ科学者として知られるニコラ・テスラは、間違いなく天才であったといわれています。テスラは現在の送電システムの主流である交流方式を実用化に導き、交流式モーターや無線操縦や蛍光灯といった、現代に通じる数々の発明を残したのです。そんなテスラは、かつてエジソンの下で働いていたことがあったのです。

奇人テスラの生い立ち

テスラは1856年に現在のクロアチアで生まれました。幼いころから幻覚や、球体恐怖症などの強迫観念に悩まされていたといわれています。しかし、テスラは数学や科学に抜群の才能を発揮し、オーストリアのグラーツ工業大学とプラハ大学で学業を学ぶことができたのです。大学卒業後はパリにあったエジソンの会社に就職し、一年後には能力が本社のあるアメリカに渡ることになります。



 

エジソンとの対立

テスラは、8ヶ国語を操り音楽や哲学などにも長けていて一日4時間の睡眠で充分というスーパーマンでした。上司であったエジソンは、会社の誰よりも長く起きて研究に取り組んでいると自負していたものの、テスラが午前10時に出勤し翌日の午前5時に帰宅するという勤務内容には舌を巻いたといわれています。
エジソンはテスラの能力を認めていたものの、主張の違いからテスラと対立することになります。その原因が「送電方法」です。エジソンは頑なに直流送電を主張していたのに対し、テスラは交流送電を主張していました。そんなある日、エジソンはテスラに「そんなに交流がいいというのなら、俺の直流でしか動かない装置を交流で動かしてみろ」と焚き付けました。成功すれば5万ドル払うとまで言われてはテスラも引き下がれません。
エジソンは、交流が直流よりも扱いが難しいことを知っていてテスラを焚き付けたのですが、対するテスラはいわば交流のエキスパートです。たちまちの内に突きつけられた難題を解決してしまったのです。成功報酬を受け取ろうとしたテスラに対しエジソンは、「あれはアメリカンジョークだ」と約束を反故にしてしまったのです。
この時生まれた確執が、やがてエジソンとテスラの対立をもたらしたのです。

 

直流と交流の争い

エジソンは、自分の作った電灯のための会社「エジソン電灯会社」で直流方式を採用し、全米に直流送電網を張り巡らせる計画を立てます。一方テスラは、エジソンに並ぶ発明家であるジョージ・ウェスティングハウスと手を結び、交流送電を使う電力事業を開始したのです。エジソンはテスラとウェスティングハウスを潰す為に様々なネガティブキャンペーンを展開しました。しかし、エジソンが「交流電流は健康を害する」という論陣を張れば、テスラは常に交流電流を放電している部屋で読書をして見せるパフォーマンスを公開するといった具合にエジソン側に不利な形で論破されていったのです。

 

エジソン、電気椅子に交流を使わせる

そこで、エジソンは発明されたばかりの電気椅子をニューヨーク州知事に売り込みました。「交流電流を用いた電気椅子は、縄や薬物や銃よりも非常に人道的な手段です」と、最大のネガティブキャンペーンを行ったのです。一説には、エジソンは電気椅子の改良のために犬や猫を実験台に使い、街から犬や猫の姿が消えるほどに電気椅子の実用化に加担したといわれています。しかし、発明王エジソンが自ら「人道的」と売り込んだ電気椅子はおよそ人道的といえる代物ではありませんでした。数回に渡って通電しなければならないうえ、椅子に座らせた囚人から煙が出て匂うほどにグリルされて初めて執行完了するというものだったのです。一方、テスラとウェスティングハウスはナイアガラの滝を使った水力発電に成功し、送電方式の主流を交流方式にすることに成功したのでした。

 

その後のテスラ

その後、テスラは送電線を用いない送電システム「世界システム」や、地球を真っ二つにすることが可能な装置や地震発生装置などを考案していることを周囲に漏らしています。ただし、テスラは自分を正当に評価しなかったことを恨んで、これらの発明を考案したわけではありません。テスラは科学の発展のために、尽くせる限りの力を尽くしたのです。テスラの晩年は、孤独であったと伝えられています。テスラは、交流方式などで得た資産のすべてを発明と研究に費やしていたのです。テスラが遺したといわれる研究メモなどの書類は、すべてFBIによって持ち去られたとも言われテスラは正当な評価をされないまま、現在にその名を残しているのです。

 
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ビクターの父、エミール・ベルリナー

エジソンとベルの発明競争において、ベル側に大きな影響を与えた人物がいます。
彼の名はエミール・ベルリナー。ベルの元で、さまざまな発明の改良に取り組んだ彼は現代にも大きな影響を与えているのです。

エミール・ベルリナーとは

ベルリナーは、1851年にドイツのハノーファーに生まれた発明家です。19歳のときに商人の父に連れられ一家でアメリカに移住し、工学を学んでいました。
その過程で、いくつかの特許を取得している天才肌の青年だったのです。当時、ベルはエジソンの電話機に関する特許に抵触しないように、ベル式電話機を改良する研究に取り組んでいました。
そんな中、ベルリナーが特許を携えてベル電話会社の門を敲きます。ベルリナーの登場は、ベルにとって福音と呼ぶにふさわしい出来事でした。なぜなら、ベルリナーが持っていた特許の中には、エジソン式電話機の特色であった炭素式マイク・スピーカーに関するものがあったのです。しかも、ベルリナーの特許はエジソンよりも早く取られたものだったのです。これ幸いと、ベル電話会社はエジソン式電話を販売するウェスタン・ユニオン社との法廷闘争へとなだれ込むのです。ベルリナーが持っていた炭素式マイク・スピーカーの特許は、エジソンよりも早く取得されたものだったのです。そして、ベル電話会社とウェスタン・ユニオン社の訴訟は、ベル電話会社の勝利といってよい形で収束したのです。

 

ベルリナーによる蓄音機の改良

エジソンは、電話と同時期に蓄音機「フォノグラフ」を発明していましたが白熱電球の開発のため、蓄音機の展開は放置されたままになっていました。電話事業が軌道に乗り、一段落着いていたベルとベルリナーは蓄音機の改良に目を向けます。
当初、エジソンはフォノグラフを音楽再生用としてではなく、現代のボイスメモのような用途で使うことを考えていましたが、再生時間が40秒程度だったので実用には程遠いものだったのです。そこで、ベルとベルリナーは蓄音機の録音機能と再生機能を分離させ、記録媒体を錫箔管から蝋管に変更するなどの工夫を加え、より実用的なものに洗練していったのです。二人が改良した蓄音機「グラフォフォン」は大変なヒット商品となりました。

 

ベルリナー、独自路線へ

しかし、ベルリナー自身はグラフォフォンの完成を見ずにベルの元から独立していました。ベルリナーは、蓄音機の可能性を追求する道を選んだのです。
ベルリナーは、蓄音機が音の振動波を縦方向にしか記録していないことに目をつけ、横方向での記録に変更しました。この際に、記録媒体を筒型のシリンダー形式から円盤型のディスク形式に変更します。これらの工夫を加えた蓄音機は「グラモフォン」と名づけられ、グラモフォンを販売するための会社「ベルリーナ・グラモフォン」社が創設されます。エジソンとベルリナーは、シリンダー形式とディスク形式による音楽再生媒体のシェア争いを繰り広げ、最終的にベルリナーの勝利で決着します。グラモフォンは、レコードプレイヤーの原型として、ベルリーナ・グラモフォン社はRCAビクター社やHMV、EMIといった名だたるレコード会社の母体になり、近代音楽史にその名を残しています。また、優れたアーティストに贈られる「グラミー賞」は、グラモフォンに由来していてグラモフォンを模したトロフィーが贈呈されているのです。

 
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自動車王ヘンリー・フォード

エジソンが発明王として活躍した時代は、自動車が実用化され始めた時代でもあります。
自動車と一口に言っても、蒸気自動車・ガソリン自動車・電気自動車が入り混じりっており、それぞれが自動車の主流を争っていたのです。
エジソンは電気自動車の研究を行っていたものの、当時の技術では実用に適さないと判断して電気自動車の研究と商業化から手を引いています。そんなエジソンに代わって自動車に生涯を捧げたのが、エジソン終生の友となったヘンリー・フォードなのです。

フォードとエジソンの出会い

フォードは1863年にミシガン州ディアボーンで生まれました。エジソンが1847年生まれなので16歳も年が違うわけです。
エジソンとフォードが出会ったのは、エジソンの会社のパーティー会場です。フォードは、当時エジソンの作ったエジソン照明会社でエンジニアとして働いていました。フォードが会社勤めをしていたのは、自動車の製作のための資金作りと、生活費を得るためであったといわれています。フォードは自力でガソリン自動車を完成させた1896年、会社のパーティーでエジソンに出会う機会を得たのです。フォードは尊敬する発明王エジソンに自分の自動車に掛ける熱意を語り、エジソンもまたフォードの情熱を認め、「これからはガソリン自動車の時代だ」とフォードを励ましたのです。

 

フォード、起業する

エジソンの言葉に自信を得たフォードは、エジソン照明会社を辞職して自動車製造会社を設立します。しかし、最初の会社は売り上げが伸びず失敗、二回目に設立した会社にはフォード自身が追われる結果になります。二度目に興した会社は後に、キャディラック社と名前を変更しています。三度目の正直で立ち上げたのが「フォード・モーター・カンパニー」社なのです。
フォード社は、他の自動車製造会社とさまざまな面で一線を画する会社でした。手作業で製造されるため車ごとに違いが出るのが当たり前だった時代に、統一規格を採用し、フォード車の生産を高めたのです。他にも労働者の待遇を他の会社よりもはるかに良いものにし、オートメーション方式の採用による生産性の向上を行っていったのです。フォードは、車の価格を安くして自動車を「富裕層だけのもの」から「庶民の必需品」へと変えたのです。

 

フォードとエジソンの友情

フォードは起業後もエジソンと親しく家族ぐるみで付き合いを続け、仕事の上でも協力し合っています。
天然ゴムの資源不足の時は協力して人工ゴム開発を行い、エジソンがアルカリ蓄電池を改良するとフォードが自社の車に採用し、エジソンのウェストオレンジ研究所が火事で焼失したときには無利子で融資するといった具合に、二人は公私を越えた付き合いをしていたのです。そして、1929年に行われた白熱電球発明50周年記念を記念した祝賀会では、フォードはメンローパークにエジソンの研究所を当時のままに再現したのです。このフォードの計らいにエジソンは感激し、電球を点灯させたと言われています。フォードは、エジソンが終の棲家としたフロリダのフォートマイヤースの邸宅の隣に別荘を建て、エジソンの晩年を見届けたといわれています。

 
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