エジソン 発明 電球
エジソンが生きた時代

エジソンの時代 〜日本編〜

エジソンの生まれた1847年の日本は、江戸時代の末期に差し
掛かった時期を迎えていました。ペリー来航に始まる日米関係の
樹立による鎖国の崩壊、攘夷論から発する討幕運動、明治維新による幕府体制の崩壊と、激動の時代を控えていたのです。

1847年〜1931年の日本の動き

徳川幕府の崩壊の引き金となったのは、間違いなく1853年のペリー来航であるといえます。徳川幕府は、海外から持ち込まれるキリスト教は武家社会の規範を乱すものと考え、オランダやポルトガルなどの限定された国としか交易を行わないようにしていました。
日本史上、幕府にとっての敵というのは「幕府体制を崩壊させる可能性のあるもの」全てなのです。そのため、キリスト教は特に強く弾圧され、当時の主流となった朱子学などの儒教的思想に沿った形での外国との交流を行っていたのです。そしてペリーの来航と前後して、エジソンは小学校を退学し発明王としての基盤を養っていくことになります。

黒船来航からの幕府の動き

1853年のペリー来航以前にも、オランダ・ポルトガル以外の国からの船が日本に来た記録が残されています。
しかし、そのことごとくは威嚇砲撃などで追い返されています。しかし、ペリーが指揮を執った黒船はそれまでの帆船とは違う、蒸気機関を使う外輪船だったことが、幕府や当時の人々の心胆を冷やしたのです。モクモクと煙を上げて近づいてくる四隻の船と、続けざまに行われた威嚇砲撃はまさしく「太平の眠り」を覚ましたのです。
ペリーの率いる船団は交渉に一年の猶予をおきましたが、数日後に当時の将軍であった家慶が急逝してしまい、急遽息子の家定が跡を継ぐことになります。
しかし、この家定には脳性麻痺があったと言われ、とても政務をこなすだけの技量が無かったといわれています。そのため家臣団による合議で、アメリカとの条約を批准することになります。この合議制のスタートが幕府への不信感を強めていくことになります。

 

アメリカとの条約

翌年の1854年に、再び日本を訪れたペリーは「日米和親条約」を締結します。この条約は関税などでアメリカ側に有利な条約であったものの、幕府側にリーダーシップを取れる人材がいなかったこともあり、締結するしかなかったのです。
ペリーは条約締結の4年後である1858年に病に倒れて帰らぬ人となったため、1858年の「日米修好通商条約」は日本総領事として来日したハリスによって締結されました。これらの条約の背景には、当時の清がアロー号事件などでイギリスによって多大な損害を受けていたことがあります。大国であった清に大打撃を与えたイギリスの強さは、当時のヨーロッパでも屈指のものであったといえます。
欧米各国が保有する軍事力は、当時の日本が持っていた戦力を遥かに上回るものであったのは確かです。そのため幕府は、少々の不利益は承知でアメリカと仲良くする以外の方法を選ばざるを得なかったのです。これらの条約の締結は、徳川幕府に不満を抱いていた外様大名や武士階級の不信感を買い攘夷派などが討幕運動を起こしていくことになるのです。

 

幕末から維新へ

この時代の人々は、全てが新しい時代への転換点の目撃者であり立役者であると言えます。幕府側についたことや、薩摩・長州側についたことに善悪は無く、ただ「自分に出来ることを行った」だけなのです。しかし、そんな歴史の転換点の中にあっても人々は権力欲などによって内輪争いを起こします。西郷隆盛は、明治維新の立役者でありながら征韓論による権力争いに破れ、国賊として倒される結果を招いています。長州藩士のリーダーであった山県有朋は、他の維新志士から嫌われていたといわれています。時代の大きなうねりの中では功績も人徳も価値は等しく、切り捨てられる時には切り捨てられるのみなのです。

 
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明治時代の到来

最後の将軍・徳川慶喜によって大政奉還と江戸城無血開城によって、200年以上続いた徳川幕府は倒れ「征夷大将軍による幕府政治」というシステムは完全に放棄されることになりました。1868年に始まった明治時代は、遅れを取り戻すために西洋文化の吸収や廃刀令などで江戸時代までの歴史を捨て去ろうとしていた迷走の時代であるといえます。欧米に追いつくための変化は、文化だけでなく経済に分野にも及んでいます。
江戸時代まで、日本の経済は銀本位制が取られていましたが、明治政府は貨幣の統一を進め貨幣価値の明確な基準として金本位制を導入し、西洋に近づける努力を続けています。
明治時代の日本は、試行錯誤を繰り返しながら西洋化による進歩を図った時代なのです。1868年は、エジソンが電気投票集計機を発明し、発明家としての第一歩を踏み出した年でもあります。

日清戦争の勃発

「富国強兵」のスローガンを掲げて近代化を進める明治政府の次なる目標は、欧米に比肩する国力を身につけることでした。
その為には領土の拡大は急務であったと言えます。まず、最初の相手になったのが清国でした。明治政府が朝鮮半島を抑える上で、清は最大の難関となったのです。1894年に起こった日清戦争は、明治政府の擁する近代化された軍隊の試金石になった戦いであると言えます。日本軍は、村田銃の導入による小銃規格の統一などで安定した補給を行えたことが勝利につながったと言われています。しかし、勝利した日本を待ち受けていたのはロシアなどによる日清講和条約への干渉でした。清はイギリスとの阿片戦争の結果香港を取られており、欧米諸国は清の敗北はチャンスであると見ていたのです。この結果、日本は遼東半島を領地に組み込むことが出来なくなってしまいます。これにより日本の次なる目標は、当時の大国のひとつであったロシアとなったのです。

 

日露戦争の勃発

ロシアが日清講和条約に干渉したのは、南下政策を取っていたためといわれています。ロシアの港は冬になると凍りつき、砕氷しなければ使えなかったので出来るだけ温暖な地域を押さえておきたかったのです。日本が遼東半島を清に返還するや否や、ロシアは遼東半島を抑え軍港化してしまいます。
これが日本の怒りを買い、「臥薪嘗胆」のスローガンの下にロシアとの開戦を求める声が高まっていったのです。しかし、ロシアにして見れば日本との開戦はありえないものでした。そもそも、ロシアから見れば日本は「最近になって近代化した田舎もの」で、かつてナポレオンの率いた地上最強の大陸軍を破ったロシア軍を巨象に例えるなら日本はアリの群れにしか過ぎないのです。
要するに「最初から負けるとわかっている喧嘩を仕掛ける馬鹿はいない」と高をくくっていたのです。しかし、明治政府は本気でした。1902年にイギリスと締結した日英同盟によって、イギリス海軍がロシアの戦力を分散させる役目を果たします。
1904年に開戦した日露戦争で日本は地上戦でロシア軍と互角以上にわたりあい、決着は海戦へと持ち込まれることになります。イギリス海軍の横槍によって、日本海への到着が遅れたロシア擁する最強のバルチック艦隊を待ち受けていたのは、東郷平八郎が指揮する日本の連合艦隊でした。東郷は「丁字戦法」と呼ばれる敵艦の進路を急速な進路変更で塞いで集中砲火を浴びせる戦術の常識を覆す戦法をとり、バルチック艦隊を打ち破ったのです。この「日本海海戦」によって日本の勝利が確定し、近代日本が西洋に並ぶ力をつけたことを欧米に知らしめたのです。

 

勝利の代償

しかし、日露戦争の勝利は必ずしも利益だけをもたらすものでなかったのは確かです。戦後に締結されたポーツマス条約は、臥薪嘗胆に耐えた民衆にとっては不満の残るものでした。
てっきり戦後賠償金と樺太まで手に入ると考えていたのに、蓋を開けてみれば日清戦争で得るはずだった遼東半島が戻ってきたくらいなのです。これに憤った民衆が起こしたのが「日比谷焼打ち事件」です。この事件は、後の大正デモクラシーにつながっていくことになります。一方、ロシアにも新しい時代の流れが生まれようとしていました。内部からの切り崩し工作を行っていた明石元二郎によって、革命の気風が高まっていたのです。
明石が接触した革命家の中にはレーニンもおり、ロシア革命の裏に日本が関わっていたと見ることが出来ます。また、日本初の内閣総理大臣となった伊藤博文も日露戦争後のロシアとの講和のために訪れたハルビンで命を落としてしまいます。

 

明治時代の文化

明治時代は、西洋文化を貪欲に取り入れた時代であったため日本的な感覚と西洋的なアイデアが合わさって、新しい文化が生まれているのです。たとえば、西洋の食文化を取り入れたすき焼きの原型「牛鍋」や、東郷平八郎のリクエストから生まれた「肉じゃが」など、それまでタブー視されていた肉食文化を取り込んだ料理が次々に誕生しています。また、1889年には現在では大手ゲームメーカーの任天堂が「任天堂骨牌」として創業するなど、娯楽においても新しい流れが生まれた時代でもあります。また、ガス灯や電信、鉄道や郵便制度などのインフラが整えられていった時代でもあり、1873年には郵便ハガキが販売されるようになりました。

 
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大正から昭和にかけての日本

1912年、元号が明治から大正に変わり日本は新たな時代を迎えることになります。
民主化の波、関東大震災の発生、第一次世界大戦の勃発などで日本の政治・経済は大きく変化していきます。明治維新の立役者たちも次々とこの世を去り、新しい勢力が現れた時代でもあります。中でも軍部勢力の拡大は後の軍国主義化を招くことになるのです。

イデオロギーにゆれる政治

大正時代は、イデオロギーに翻弄された時代であるといえます。1917年、ロシアで十月革命が起こり帝政ロシアは打倒され、1922年ソビエト連邦が樹立します。ソ連は共産主義を掲げ、世界初の社会主義国家としてその存在感を発揮していくことになります。
一方、日本でも大正デモクラシーが起こり、民主主義政治の実現に向けて議員制度や選挙制度の改正運動が起こっていました。
それに加えて、ロシアから輸入された社会主義の実現を夢見る運動家や無政府主義者が現れ、プロレタリア文学が起こり始めていました。前述の通り、ロシア革命には日本の支援が存在しています。元々は日露戦争を有利に進めるための兵法の一つだったのですが、それがいつしか大きな流れとなっていたのです。

 

関東大震災から生まれた治安維持法

そして1923年、関東大震災が発生します。犠牲者10万人とも言われたこの地震のあと、様々なデマが飛び交い朝鮮人を中心とした二次被害者を出す騒ぎが起きています。
この状況に政府は、混乱に乗じて社会主義者が革命を起こすのではないかと憂慮し、悪名高い「治安維持法」を成立させたのです。治安維持法は、「国体の変革」つまり革命を起こすことを目論んでいる者を取り締まるための法律です。
つまり、革命の代名詞と言える社会主義を標榜する社会主義者などを自由にしょっ引くことが出来るのです。

 

激動の昭和時代へ

1926年12月25日、時代は大正から昭和へと移行します。軍部の力が強まりつつあったこの時代は、第一次世界大戦の余波で起きた昭和金融恐慌や1931年に起きた世界恐慌の影響で、世界的に金融不安を抱えていた時代でもあったのです。
この金融不安はやがて、政治への不信を招きナチス・ドイツをはじめとするファシズム政党の台頭を招くことにつながっていきます。エジソンがその生涯を閉じた1931年、満州事変が起こり日本は戻れない道を行くことになっていくのです。

 
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