エジソン 発明 電球
エジソンが生きた時代

エジソンの時代 〜世界編〜

エジソンの生まれた時代は、新しい文化や技術が次々に生み
出されていった時代でもあります。そうして生まれた文化や技術は、
エジソンだけでなく政治や経済にも大きな影響を与えていくことになったのです。

1847年から1931年までの世界

この時代は、18世紀にイギリスで起きた産業革命の影響を多大に受けた時代であるといえます。産業革命は蒸気機関の実用化によって、それまで家内制手工業として行われていた紡績産業が工場制機械工業として大規模に行うことが出来るようになったのが、そもそもの始まりです。産業が大規模に行われるようになると言うことは、需要と供給が大量に創出されると言うことです。イギリスをはじめとする欧米諸国では需要の掘り起こしを兼ねて世界中に商船を送り出します。かつての大航海時代は、新しい領土を得るための国の威信を賭けた競争としての一面を持っていたのですが、今回は商業を目的とする航海なのです。日本が鎖国を解くことになったのも、欧米で起こった産業革命が遠因であると言えます。

第一回万国博覧会

1851年、イギリスのハイド・パークで行われた万国博覧会は世界25カ国の文化や芸術と、最新の技術を紹介する博覧会として開催期間中は600万人の観客を動員し、大きな話題を呼びました。
ハイド・パークに建設された鉄骨とガラスで組み上げられた会場「水晶宮」は、先進的なデザインとその構造から大変な支持を受けました。この水晶宮は現代で言うところの郊外型ショッピングモールのはしりで、1936年に焼失するまでロンドンっ子に愛されていました。世界最初の万国博覧会は大変な利益を上げ、これ以後数年おきに万国博覧会が開催されるようになります。
日本が万国博覧会に正式に参加したのは、1867年開催の第二回パリ万国博覧会のことです。

 

ゴッホ誕生

19世紀中期は、芸術の世界においても様々な才能が輩出していった時代でもあります。この時期に生まれた画家の中でも、特に人気が高いのがヴィンセント・ヴァン・ゴッホです。
ゴッホは後期印象派の中でも不遇の生涯を送った画家としても知られています。1853年、牧師の家に生まれたゴッホが画家を志したのは27歳の時のことです。この時代の画家は遅咲きの傾向にあり、ゴッホの画家デビューが遅かったことは別段珍しいことではなかったのです。1890年に自ら命を絶つまでのゴッホは、絵が売れないことや自分が理解されない苦しみからか心を病んでいたと言われています。そのためか奇行も多く、ゴッホと生涯付き合ったのは実弟のテオドールだけであったようです。ゴッホは日本の浮世絵から影響を受けた画風などにも取り組んでおり、その才能が認められるようになったのはゴッホが没した後のことです。

 

リンカーン大統領就任

1860年、アメリカの歴史を大きく変えることになる人物が大統領に就任しました。それがエイブラハム・リンカーンです。リンカーンは、貧しい農家の出ながらも努力を重ね弁護士になり、政治家に転身した立志伝中の人物として語られています。
リンカーンの最大の功績は、黒人奴隷を解放したことが挙げられます。黒人奴隷解放を謳って大統領選に出馬したリンカーンに対し、黒人奴隷を労働力としたプランテーションで収益を得ている南部の各州はリンカーンの大統領当選と同時にアメリカ合衆国から離脱し、「アメリカ連合国」を形成します。
そして1861年、アメリカ連合軍が北部のサウスカロライナ州のサムター要塞を攻撃した「サムター要塞の戦い」が起こり、南北戦争へと突入していくことになります。戦況は当初南軍有利で展開していったのですが、後の第18代大統領となるユリシーズ・グラント将軍らの活躍によって1865年にようやく終止符を打つことになります。
この後リンカーン大統領によって行われたレコンストラクション政策によって、「奴隷解放宣言」がだされ黒人たちは奴隷階級から開放されました。しかし、この奴隷解放宣言が有効だったのは実は南部側だけでした。その後、南北戦争の戦没者追悼式典で有名な「ゲティスバーグ演説」を行い、名実共にアメリカの大統領になったリンカーンでしたが、1865年4月14日に、南部支持者のジョン・ブースの手によって命を落とすことになります。また、黒人たちは奴隷制度から開放されても、選挙権などの公民権を得たわけでありませんでした。黒人が公民権を得て白人と対等な立場になるのは、100年後の1960年代の公民権運動を待たねばならなかったのです。

 

スエズ運河開通

かつて、ヨーロッパからアジアに向けた船団はアフリカ大陸を大きく迂回して喜望峰周りのコースを取らなければなりませんでした。
アフリカ大陸を迂回するコースは時間が掛かる上に高い操船技術を要求されるため、アジア向けの貿易船を出すことそのものが難事業であったのです。1859年、フランスの外交官フェルディナン・ド・レセップスはかつて家庭教師を務めていたエジプト総督のサイード・パシャと再会し、かねてから温めていたスエズ運河の構想を打ち明けます。サイードはレセップスの構想に同意を示し、歴史的な大事業となるスエズ運河の建設工事が始まります。
スエズ運河はいわば「海の高速道路」で、往来する船舶から通行料を徴収できれば安定した収入源となるとサイードは考えたのです。しかし、スエズ運河の建設工事はイギリスによって妨害を受けることになります。イギリスはスエズ〜アレキサンドリア間の鉄道の敷設を始めていたからです。レセップスは、「国際スエズ運河株式会社」を設立して建設費を株式で賄い、とうとう1869年にスエズ運河を開通させます。スエズ運河の開通記念式典において、オペラが上演されたのですが本来上演される予定だったのがヴェルディの「アイーダ」だったと言われています。
しかし、スエズ運河株式会社の株式は、ロスチャイルド財閥からの融資を受けたイギリスによって買い取られ、スエズ運河の運営はイギリスの手に渡ることになります。

 

普仏戦争の勃発

フランス革命後のフランスを統治したナポレオン・ボナパルトの甥であるナポレオン三世は、第二王政・第二共和制を経て1852年にフランスの統治者として君臨することになります。
しかし、ナポレオンにたびたび苦渋を舐めさせられていたプロイセンはナポレオンの系譜がフランスを統治することに危機感を感じていました。そして1868年、スペインの王位継承をめぐってフランスとプロイセンは対立することになります。
当時のプロイセンの首相で、鉄血政策で知られるビスマルクはプロイセン王からの電報を改竄し「フランスがプロイセンを侮辱した」としてマスコミに流したのです。この報道がきっかけになって起こったのが1870年7月の普仏戦争です。周到な根回しを行い、準備万端で望んだプロイセンに対しフランスはメキシコの傀儡政権が失敗したことで孤立無援の状態で望まなければなりませんでした。
普仏戦争はドイツの優勢で展開し、状況の打破のために自ら出陣したナポレオン三世が捕虜となった時点でほぼ決着しました。
1871年1月には、プロイセン軍はパリに侵攻しフランスを降伏させます。講和条約でアルザス・ロレーヌ地方を勝ち取ったプロイセン王国は統一ドイツを発足させます。
この普仏戦争は、後の第一次世界大戦に繋がる遺恨を残すことになり、ナチス・ドイツの台頭に繋がっていくことになります。

 
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第二次産業革命の時代

19世紀末から20世紀初頭にかけて、大きな変革が訪れます。
それが第二産業革命です。第一次産業革命は蒸気機関の実用化によって起こりましたが、第二次はエネルギー源の変革が主流となっています。
それまで使用されていた石炭から石油にエネルギー源が変わったことで、運動変換効率が大幅に上がり交通事情などが大きく変化することになっていったのです。

ガソリンエンジンの発明による変化

1876年、ドイツのオットーによって発明されたガソリンエンジンは産業や工業に大きな影響を与えていくことになります。
蒸気機関は、蒸気を発生させてピストンやタービンを動かしていく機構なので、運動変換効率が低く燃料とは別に大量の水が必要になります。しかし、ガソリンエンジンは燃料だけで動かすことが出来る構造のため蒸気機関に対して大幅な小型化が可能になります。
ガソリンエンジンの発明によって実用化の道を開いたのが自動車と飛行機なのです。ガソリン自動車を発明したのはドイツのカール・ベンツで1886年のことです。ベンツはガソリンエンジンの研究者であったダイムラーと提携してダイムラー・ベンツ社を設立して自動車の普及に貢献していくことになります。一方飛行機は、人類の長年の夢である「空を飛ぶ」ことを実現するための過程で生まれたものです。人力飛行機やグライダーや、気球と言った手段はあったものの、鳥のように速く飛ぶことができるわけではなかったのです。
1903年、エンジン付き飛行機での初飛行に成功したのがアメリカのライト兄弟です。しかし、その偉業とは裏腹にライト兄弟は多大な苦難を背負うことになります。「世界初の飛行機発明者」の栄誉を巡ってのトラブルに付きまとわれ、不遇の晩年を送ったのです。

 

エッフェル塔の建設

世界の高層建築物の中でも、長い歴史を持っているのがフランスのエッフェル塔です。エッフェル塔は、フランス革命100周年を記念した1889年の第四回パリ万国博覧会のために建設されました。エッフェル塔の名は、建設施工を担当したエッフェル社と社長であるギュスターヴ・エッフェルに由来しています。
エッフェル塔の高さは312.3mで三箇所の展望台と二基の水圧式エレベーターを備えた先進的な建築で、「鉄の貴婦人」と呼ばれパリっ子から愛されてきました。エッフェル塔が嫌いだった作家のモーパッサンはエッフェル塔を見たくないがためにエッフェル塔のレストランに通いつめていたというエピソードが残されています。

 

第一回アテネ五輪の開催

四年に一度行われるオリンピックが開催されるようになったのは1896年のことです。オリンピックは古代ギリシャで行われていたオリンピアの祭典にヒントを得たクーベルタン男爵によって開催されることになりました。最初の開催地となったのはオリンピアの祭典が行われていたギリシャの首都であるアテネで、全14カ国が参加して行われました。この当時のオリンピックは、クーベルタン男爵の信念から個人参加を前提としていたことや、優勝者に与えられるメダルは金ではなく銀であったことなど、現在のオリンピックとは大幅に違うものでした。またこの大会では、マラトンの故事に倣った初めてのマラソン競技が開催されています。

 
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第一次世界大戦の勃発

1914年、世界の先進国を巻き込んだ戦争が起こります。
「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島に位置するボスニアのサラエボで、オーストリア・ハンガリーの次期継承者と目されていたフェルディナンド大公夫妻がセルビア人の青年によって命が奪われたのです。
当時、ボスニアはオーストリア・ハンガリーの領土となっていましたが多くのボスニア人やセルビア系ボスニア人は、オーストリア・ハンガリーからの脱却を望んでいたという背景がありました。オーストリア・ハンガリーは、セルビア政府による支援があったのではないかという疑いを持ち、セルビアに宣戦布告します。
これが、4年にわたる世界的な総力戦の始まりとなったのです。

第一次世界大戦の影響

オーストリア・ハンガリー側にはドイツ・トルコ・ブルガリアが付き、セルビア側にはフランス・イギリス・ロシアなどのドイツと反目する「三国協商」の参加国が参戦していきます。ここに同盟関係で日本などが参戦、領土問題を抱えていたイタリアなどが次々に参戦していくことになります。この戦いは、次々に参戦する国家が現れたことから長期化し総動員令をかけた国家も少なくなかったのです。しかし、この戦いは本来の目的とはまた別の意図を生み出すことになります。列強国家のほとんどが全戦力を送り込んでいたため、革命勢力にとってはまたとない好機となります。
ロシアとドイツで革命が起こり、歯抜けするように参戦国家が減っていったのです。結果としては、セルビア側の勝利で終わりドイツは解体されワイマール共和国となったものの、大きな戦後賠償金を背負うことになります。この戦後賠償金ハイパーインフレを引き起こし、ナチス・ドイツの台頭へと繋がっていくのです。

 

世界恐慌の発生

第一次世界大戦の影響は経済的な被害をもたらすことになります。特に輸出国であったアメリカにおいてその影響は顕著でした。
輸出先が債務を背負ったり購買力が落ちていたりしていたこと、ソ連成立によってロシア方面の輸出が出来なくなったことで生産過剰になっていったのです。
また、この時代のアメリカは、投機が一種のブームとなっていました。世界恐慌のきっかけは、ウォール街の株式市場から始まったのです。最初は1929年10月24日木曜日に起きた、ほんの少々の株価下落でした。株価は数が限定される株の需要で決定される流動的なもので、株価が下がると買い時と見た投資家によって買い注文が起こります。しかし、この日は違っていました。
買い注文の後、売り注文が増大し大暴落したのです。この日を「暗黒の木曜日」と呼びます。この時はかろうじて買い支えで株価は安定したのですが、次の週の10月29日火曜日には更なる大暴落が起こったのです。この日のことを「暗黒の火曜日」と呼び、世界恐慌が始まった日として長く語り継がれることになります。

株価下落の原因は

なぜ、この二日において株価下落が起きたのでしょうか。
原因の一つには、戦後復興による購買力の低下がありますが、それ以上に投資家の動きの影響があったようです。
株取引には「空売り」という手法があります。持っていない株の売り注文を出し、株価が下がったところで売った分の株を買って帳尻を合わせた上で儲けを出す手法です。世界恐慌には、この空売りを大規模に行った投資家が存在していたのです。
その投資家の名はジェシー・リバモア。株式相場において成功と破産を繰り返した、当時の大物投資家の一人です。
リバモアは、あの「暗黒の木曜日」に膨大な空売りを仕掛けていたのです。「暗黒の木曜日」でバリモアが挙げた収益は1億ドルにのぼるといわれ、「暗黒の火曜日」への布石が打たれることになったのです。

ウォール街から世界に飛び火した恐慌

他の国で恐慌が起きた場合、政府は何をするべきなのでしょうか。世界恐慌の際に、各国が行ったのは関税の引き上げによる輸出を差し止める「ブロック経済」でした。
つまり、国内生産力の増大を行ったのです。
同時にイギリスやフランスは金本位制を放棄し現在の管理通貨制度へと移行していくことになります。アメリカが世界恐慌の発生と共に拡散していた資本を引き上げたため、ドイツ経済は完全に破綻してしまいます。日本では、金本位制への移行を行っていたため、世界恐慌の影響を受けることになります。
この世界恐慌の中で唯一影響を受けなかったのが社会主義国家のソ連だけでした。
この世界恐慌は、第二次世界大戦の下地を形成したのです。

 
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